宮崎にて停泊中です。
いろんな方にサポートしていただいて、もう明日で旅に出てから30日が過ぎることになります。
本当にいろんなことがありました。と言うか、いろんなことがあってます。現在進行形。
旅程的には、最大の難関のひとつと考えていたルート、錦江湾横断から佐多岬をかわし、大隈半島縦断、そして志布志湾横断。
これを終えてホッとしたところがあるかな。
それにしても、黒潮は怖かった。佐多岬から内之浦の手前まで。
岸から見ると、天気が悪かったせいもあるけど、本当に黒潮は黒々として見えました。
それに、波が1.5mとの予報のときも、うねりの中に入ると、そのスピードやパワーがいつもの1.5mや2mの波とは全く違いました。
いくつもある大隈半島の名もない岬を越えるたびに、今回の遠征で初めて、ちょっとした「恐怖」を味わいました。
まだまだですね・・・
昨日、宮崎市の青島漁港に到着しました。
昨日は、漕いでも、漕いでも、ちっとも前に進みませんでした。
汐なのか?風なのか?それとも疲れか?
ずっと雨が降っていたので、目指す岬や島が実際よりも遠く見えます。
なので、岬を回りこむたびに、行く先を見てげんなりしてパワーが落ちてしまったのか。
とにかく、今日は「リフレッシュ休暇」をいただきました。
宮崎は、九州のなかでも、とっても好きな場所のひとつです。
飯はうまい(地鶏、宮崎牛、もちろん魚、果物、焼酎、ラーメン、うどん他)、自然は豊か、そして物価も安い!
夜の繁華街も賑やかですし(今回は関係ありませんが・・・)。
都市には、ちょうどいい規模というのがあるんでしょう。
自然に恵まれている宮崎は、このぐらいの規模の都市が一番いいのかもしれませんね。
お酒はやめているので、悔しいので酒屋に入って地の焼酎をたくさん東京の実家に送りました。
それ飲むためにも、ちゃんと帰り着かないと。
漕いでいる間は、いろんなことを考えます。
鹿児島にいるときには、やはり高校時代にずっぽり熱中していたラグビーのこと。
高校時代のOBを集めて、強いチーム作りたいなぁとか、またニュージーランドでラグビー始めようかな、とか。
あとは、お世話になったいろんな方々。
今回、鹿児島で停滞が長かった際に、実は大事な恩師がお亡くなりになったことを知りました。
高校2年と3年時に担任をしていただいた小野甲子郎先生です。
昨4月15日に息を引き取られたとのこと。
故人のご意向で、あまり多くの方に知らせないようにとのことで、私も学校に行って初めて知りました。
小野先生宅にお電話して、突然ですがお伺いして仏前にお参りしたい旨を奥様の栄子様に申し上げたところ、喜んで迎え入れていただきました。
小野先生は、定年を迎えられた後も73歳まで、計45年間現役の教師として頑張っていらっしゃったそうです。
ご退職されてからも、ずっとお元気だったそうですが、胃癌に侵され、すぐに逝かれてしまったとのこと。
小野先生は、私にとって特別な先生です。
先生は、大学入試の際に、古文2問中の1問、そして漢文2問中の1問をピタリと言い当てられました。
馬鹿だと言われていた私たちの学年が、なんとうちの高校始まって以来の最高合格率。
でも、私にとって先生が「特別」なのは、そんな理由ではありません(もちろんそのお陰で私も合格させていただいたのですが)。
忘れもしない、高校3年生のときの体育祭。
ひとつの種目に「先生ごめんなさい!」というのがあります。
これは、先生をキャスティングして寸劇をやるんです。いわゆる創作劇です。
担任の小野先生は、そのとき齢60歳。甲子園が建設された1924年(大正13年)生まれです。
でも、役どころは不良。学生服を脱ぐとその下には赤い革ジャン。
現役高校生を数人後ろに従えて、おもむろに立ち上がると、その時代に大流行したマイケル・ジャクソンの「Thriller」を踊るんです!
練習のときに、先生にThrillerが入っているカセット・テープ(!)を渡そうとすると、
「マイケルは持っているから。」と断られました。
遠足のバスの中では、
「イブからの手紙を歌います。」
「???」
その曲が田原俊彦の「バイバイ哀愁デート」のB面だと知っていたのは18歳の生徒の中でもごくわずかでした。
下宿訪問で、生徒の部屋に張ってあるポスターを見て、
「バウハウスもこのごろ元気がないねぇ。」
なんて、おっしゃっていました。
そんな小野先生がいなくなってしまいました。
3年前の卒業20周年の同窓会の際にはお元気な姿を見せていただいたのに。
先生のご遺影に手を合わせ、この偶然と先生が与えてくれたいろんな教えと気持ちに感謝して、その場を去りました。
この旅でいろんな人に出会いました。
そして、今度は貴重な「さようなら」をお伝えする機会もいただきました。
ありがとう、旅の神様。
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