昨日、日本時間の午後7時半過ぎに、早坂正隆先生がご他界されました。
私が、早坂先生にお会いしたのは、今から31年前の1982年4月。
ラ・サール学園高校に入学した、その翌日でした。
早坂先生は、その当時は48歳。ラグビー部の監督でいらっしゃいました。
進学校だからでなく(それを周りへの進学理由としていましたが)、大牟田にはないラグビー部がある高校として、私はラ・サール高校に進学することにしました。
そして、入学したその翌日にラグビー部に入部しました。
ラ・サールには中学もありますので、もちろん中学から入部している同級生もいると思っていたところ、私が同期で初めての入部者でした。
そのころの私は、バスケット部上がりのひょろひょろとした体格。
身長は172㎝程度あったものの、体重は60㎏あるかないか。
そんな私を見て、早坂先生は、「バスケットをやっていたやつは、ラグビーはうまくなるものだ。」とおっしゃってくれました。
あまり知られていないかもしれませんが、ラ・サール高校はラグビーをはじめ、部活がとても盛んで、競技によってはかなり強い部もありました。
私たちの前後の年代では、ラグビー部とならんで、バスケット、サッカー、テニス、柔道、空手等々、九州大会に駒を進めていた部活が多くありました。
ラ・サールの文化として、勉強ばかりやっていてはいけないという不文律みたいなものがあったようでした。
今振り返ると、そう思えます。
新入生の時の高校3年生は、ラ・サールラグビー部の黄金期である17期の先輩の方々。
ラグビー素人の新入生から見ても、「すげぇ!」と、思わず声を出してしまうほどの才能ある方々の集まりでした。
鹿児島では敵なし。九州大会に2回も出場し、他県の強豪チームと対戦していました。
私たちの期は19期。
強豪であった17期、そして、その17期を支えていた、これまた才能のある人が多数の18期の先輩の方々。
その下で、小突かれながらも、なかなか伸び悩んでいたのが、私たち19期でした。
キャプテンを任された私に、早坂先生は、「どんなことがあっても、新人戦は取りに行くぞ。」と、力強くおっしゃっられていました。
地道に頑張ることが取り柄だった19期のメンバーに対して、一つ下の20期には、センス、体格に秀でた選手が多数いました。
大事な新人戦の前に、早坂先生に職員室に呼ばれ、今度のスタメンは20期中心で行くと言われたのを、今でも覚えています。
それを19期のみんなに伝えるのが、私の仕事でした。
その新人戦では、最大の難関と言われていた鹿児島高校に、10-0の好ゲームで勝利し、準決勝に進出。
ただ、そのゲームで私は左手甲の骨を完全骨折し、2か月間はゲームに出場するどころか、ラグビーもやれないことになりました。
15年連続決勝進出がかかった準決勝では、終了間際までリードしていたものの、敵陣から逆転トライを挙げられ、敗退してしまいました。
2年半の高校現役生活には、たくさんのやり残したことがありました。
戦績ももちろんでしたが、自分がまだまだ伸びる余地があるのに、という思いもあったと思います。
19期の同期のみんなも、きっと、そんな思いであったと思います。
引退して、毎日の練習から解放され、そのことで、自分がラグビーが大好きだと気付いた同期たちは、高校3年のとき、受験を前にしても、OBとして後輩の指導にたくさん携わってくれました。
毎週土曜日は、現役と引退した高校3年生との試合。
不思議なのは、その時の19期は強かったんだよね。同期のみんな、いきいきとプレーしていました。
早坂先生も、「お前ら、現役の時にもっとやれば、強い期になれただろうにな。」と、おっしゃっていました。
卒業しても、まだまだ高校のグランドに置いてきたものがたくさんあるような気がして。
就職してからも、春と、夏の合宿に参加するために、毎年、鹿児島に帰りました。
後輩からは、厳しい先輩と思われていたようです。
伝統の戦績を途絶えさせた弱小19期ではありましたが、だからこそ、自分に何かやれることが無いか。
若いながらにも、一生懸命模索していたのかと思います。
私自身は、すごいプレーヤーでも、なんでもありませんが、今まで、ずっとラ・サールのラグビーに深くかかわってきたような気がします。
たくさんの尊敬すべき先輩の方々と、そして、それよりも多くのの可愛い後輩たちに挟まれて、すごく幸せな19期の一員です。
早坂先生、そして後進の池川先生の築き上げたラ・サール・ラグビー部の伝統というものの恩恵をいただいているのが、私たちの年代だと思いますし、私自身だと思っています。
早坂先生は、とても格好いい人です。
いつも、自分が、そしてラ・サール・ラグビー部が、どう見られているか、気にされている人でした。
獰猛であれ、そして紳士であれ。
勝つことだけが目的ではない。でも、誰よりも勝ちたいという気持ちを持て。
汚いことはするな。でも、誰よりも獰猛であれ。
部員、ひとりひとりの顔と名前ばかりか、みんなの家族のことまで、自分の家族のように覚えてくれる。
OB会の〆には、先に逝った部員を偲び、
「あいつが死んだそうだな。きっと、あいつのことだから、先に逝ったやつらをまとめて、スクラム練習をしているに違いない。」
などと、ひとり、ひとりのことを思い出されるように、お話されていました。
そして、いつも、最後には、
「俺より先に逝くな。先に逝った奴は、天国でも罰のキックダッシュだからな。」
と、おっしゃっていました。
その先生も、今は天国で、首を長くして待っていらっしゃった奥さまと、数人のOBたちと一緒に、酒を酌み交わしていらっしゃると思います。
「お前ら、俺のことはどうでもいい。自分のことをちゃんとやれ。そう教えただろう。」
きっと、そう私たちには、おっしゃっていることと思います。
「ここには来るな。お前らには、まだ早いだろう。」
とも。
自分が、こうして、ここにいられること。
いろんな人のおかげだと考えています。
今までの人生でお会いしたすべての人々との出会いが、ここに導いてくれたのだと思っています。
その数多くの出会いの中で、進むべき道を、言葉少ない中で、でも明確に教えていただいたのが、早坂先生でした。
ラグビー部の監督でありながら、早坂監督ではなく、早坂先生という風に、ずっとお呼びしています。
古典の先生であられたというだけでなく、私も含め、いろんな人にとって、ラグビーを通じて、そのお人柄を通じて、大事な、大事な、「先生」であられたからだと思います。
ありがとうございました。
きちんとしたお礼は、またお会いした際に、させていただきます。
今は、ごゆっくりお休みください。
本当に、ありがとうございます。
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