祖父母が生前住んでいた家が取り壊された。
祖父はいわゆる開拓民、厳密に言うと開拓民の息子であった。小さい頃から活発、そして生意気だった祖父は小学校を卒業するかしないかのうちに、老馬一頭を引き、道南は黒松内の奥地の開墾を始めた。というより、始めさせられた、という方が良いのかも知れない。
当時の北海道では、その土地を開墾し、何年間かそこに住むと、その土地の権利が与えられたらしい。生活する、今なら簡単に言えるけど、馬一頭とどうやって生活したのだろう。開墾が終わり、何とか種をまけたとしても収穫は秋まで来ない。もう少し祖父が長く生きていれば、もっと詳しいことを聞けたのに、といつも思う。
そんな生活も慣れてきた二年目の冬、老馬が死んだ。当時、祖父が一番若かったということもあって、周りの大人はいつも辛いことを老馬と祖父にさせていたらしい。馬がいくら長生きと言っても、さすがにそれでは寿命が縮む。そして、馬がいなくなってしまった祖父は、冬をどうにも越せないと思い、山を下りることにした。
札幌の漬物屋での丁稚奉公をしていた矢先、祖父は思いがけなくパプアニューギニアに行くことになった。時勢が戦争へと向いたのである。
祖父は砲兵団の測量士として、優秀な兵隊だったようだ。僕はこう書きながらも、その時代の祖父の事をしらない。あまり話してくれなかったし、僕も聞かなかった。でも、ヘビが本当に苦手な僕に、祖父は「ヘビとは仲良くしたほうが良い。首に巻けば涼しいし、食べれば美味しい。戦争の時はいつもヘビを探していた。」と、教えてくれた。他に話してくれたことと言えば、南十字星がパプアニューギニアから、いつもきれいに見えたということ。ヘビの話は覚えていたけど、南十字星の話はずっと忘れていた。入院生活が始まったばかりの祖母を、お見舞いに行った時まで。
「南十字星を見たい。本当にキレイだって、いつもおじいちゃんが教えてくれたから。」
「ニュージーランドに来れば良いんじゃない。良くなったらだけどね。」癌だって聞いていたけど、株をして、徹夜で麻雀をして、各地を飛び回る自由気ままな祖母だったから、大丈夫だと思っていた。でも僕が思ったよりも悪く、日に日に弱くなり南十字星を見ぬまま亡くなった。
母から報告を受けた後、すぐに南十字星が一番キレイに写っている絵葉書を探して日本へ送った。でも何だかやるせなくて、今でもたまにカメラを空に向けてみる。でも写真って難しくて、なかなか上手く撮れない。
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